ゲミ
高尾直樹
神の子ゲミは、目に見えぬ死の息より蘇(よみがえ)り、楽園の新たなる
担(にな)い手として復活せり (ゲミ創世記前文)
あれからもう三カ月も連絡がない。アテロンのアパートは、十三年蝉(せみ)の抜け殻のように空っぽだった。そこにはもう、男らしい彼の油の匂いすら、残ってはいなかった。ルミナは、イェフベ山での事故の話を聞いて、すぐにテロンキア大学の院生相談室に問い合わせてみたが、既に彼は自主退学していた。
「いい学生だったのに、クロロプ教授の死が、そんなにショックだったんでしょうかねぇ」
確かにアテロンは、クロロプ教授を学者、あるいは思想家として非常に尊敬していた。だが個虫的には、教授の虫性を批判していたのを、ルミナはよく知っていた。アテロンに言わせれば、教授は、「1億5000年前に絶滅した、ユメカゲロウの卵の殻を100枚重ねて、その中に閉じこもって生きているような虫」だったらしい。
誰でも知っていることだが、卵の殻を硬くすることで、天敵であるクロスジアゲハモドキから自らの種の存続を保っていたユメカゲロウは、環境の変化による食物の減少により、カラカタツユクサを食べざるを得ないようになったという。そのために、当然のことながら、卵の殻がより硬くなるようになり、ついには幼虫が、自分の力で卵の殻を割って出ることができなくなって絶滅してしまったのだ。その哀れなユメカゲロウの卵の殻を、「100枚も重ねる」と言う、アテロンのオーバーな表現を思い出し、ルミナは笑いながら泣いた。
ルミナには、あの日のアテロンの言葉を、信じることができなかった。
「他に好きな虫ができてしまったんだ。僕には、君の優しさが重すぎたのかもしれない。僕は君のその優しさに甘えていただけで、本当には君を愛してはいなかったんだよ。だから、婚約もなかったことにしてくれ」
ルミナはその時、周りの目も気にせず、アテロンの左の頬に平手打ちをおみまいした。思い出すだけで、あの時の痛みが右の上の手に感じられた。それが彼に触れた最後だった。ルミナはその手の平に、思わずアゴを擦り寄せた。
アテロンはそのまま黙って去って行ったが、彼の目に涙が溢れていたのを、ルミナは見逃さなかった。彼は嘘をついていたのだ。ルミナにも言えないような、何か重大な事が彼の身に起こったに違いない。そうとしか考えられなかった。どんなに辛いことがあっても二虫(ふたり)は一緒だと言ったアテロンが、グロッスム賞には程遠い演技までして、彼女と別れなければならない程重大な事とは、一体何だったのだろう。
ルミナは、アテロンにもらったネックレスを、左上の手の爪でいじりながら、過去の記憶を呼び起こそうとした。大昔の哺乳類の歯でできたペンダントを何げなしに見ていると、不思議な事に気がついた。今まで何カ月も、ただ、アテロンがくれたという喜びでしか眺める事がなかったこの歯。確かにアテロンは、哺乳類のものだと言っていた。しかしそれにしては大きすぎる。哺乳類は、昔からせいぜい我々の頭部位の大きさしかなかったことぐらい、小学生でも知っている常識だ。こんなに大きな歯を持っているとしたら、この哺乳類は、頭のお化けか、恐ろしく巨大だったことになる。しかも中心部に、ペレス産の金属のような詰め物がしてある。哺乳類が金属を食べるなどということは聞いたこともないし、これは明らかに虫為的に施されたものだった。しかしアテロンは、そんな細工をしたなどとは、一言も言わなかった。
ルミナは、アテロンが、「教授は似たような物を一杯持ってるから、ひとつくらい無くなっても分からないよ」と、言っていたのを思い出した。その一言のために、この歯を返す返さないで、大喧嘩したのだ。それではクロロプ教授が、わざわざ無数のサンプルに穴を空け、高価なペレス産の金属を詰め込んだのだろうか。いくら世に言う多くの大学教授が、一般虫にとって訳の分からない研究をしているとは言え、大昔の歯の化石に金属を詰め込んで何かの役に立つとも考えられない。まして、そんなに多量のペレス産の金属を買うための研究費が、クロロプ教授一虫(ひとり)に出されるはずもない。だとすれば、大昔の地球上には、自分の歯に巧みに金属を詰め込む技術を持った、巨大な頭の哺乳類がうろついていたというのだろうか。想像するだけで、気分が悪くなりそうだ。第一そんなことは、ゲミの聖書のどこにも書かれてはいない。
「考えすぎね。きっとアテロンが気を利かせて細工したんだわ」
口ではそう言ったものの、ルミナの頭の中では、さらに多くの考えが渦を巻いていた。動転する気持ちを押さえながら、彼女はこの絡まった謎の糸をほどこうと、さらに考えを深めていった。
そう言えば、クロロプ教授の下で働くようになってから、アテロンは黙り込むことが多くなった。彼独特の冗談は、相変わらず続出していたが、政治的な発言も多くなった。聖カムロア短大の厳格なゲミ教崇拝の中で、看護婦の資格を得るための勉学に勤しんでいるルミナにとって、アテロンの現代に対する皮肉に満ちた意見は、時として憤りさえ感じるものがあった。しかし冷静に考えてみると、彼の指摘は的を得ていた。確かに、世襲制による中央教会の荒廃は、社会のあらゆる所で表面化しているし、教育省の画一的な教育方針は、個性的な虫の出現を恐れているかのようだ。ゲミの聖書に謳われている「言論の自由」さえも、中央教会の秘密警察によって、巧みに軌道修正されていて、それに対抗する、地下組織まであるらしいとアテロンは言っていた。その暴力的活動には賛成しかねるが、真の自由を守ろうとする考えには賛成するとも言っていた。そして、そういった情報のほとんどは、四六時中聞かされる、クロロプ教授の独り言から得たものだとも言っていた。
その教授の突然の死。もしかすると、教授の死と研究には、何か関係があるのかもしれない。
そこまで考えて、ルミナはふと、アテロンの身に危険が迫っていることを直感した。一見平和そうなこの世界の裏では、一般の虫には知らされていない、何か恐ろしい事が起こっているに違いない。クロロプ教授は、きっとその秘密を知ってしまったのだ。すると教授の死は、事故に見立てての暗殺。そして今度は、教授の下で働いていたアテロンが狙われている。彼が教授の研究内容を知っている、いないに関わらず、虫一虫を殺さなくてはならない程の研究に携わっていたものは、抹殺した方が良いという方程式は、簡単に成り立つ。その居所をつかむためには、家族や恋人を調べるのが一番早い。最も卑怯であり、確実な方法だ。それを逸早く察したアテロンは、わざわざ大勢の虫達の前で、あんな芝居を打ったのだ。ルミナを守るために。
考えれば考えるほど、納得がいく推理だった。アテロンの愛の深さを察する事も出来ずに、彼を愛しつつも恨んだ自分の愚かさを、恥ずかしく思った。いや、むしろあの時はあれで良かったのだ。多くの目撃虫がいる中で、教授が殺される1カ月も前に、完全に別れてしまった二虫。
ルミナの目から、止めども無く涙が流れ、その涙は、半年前アテロンにもらったキュロの油の壺の上に、結婚式で行うサヴァヴの儀式の聖水のように滴り落ちた。
「ほら、見てごらん」
「うわぁ、すごい。どうしたの、こんなにたくさん」
「クロロプ教授のアシスタント料さ。何て言ったって、ファイルや木箱を整理するだけで、一日75ルーキンももらえるんだ。助かるよ」
「これだけあれば、少しはクレのおばさまにも送れるわね。良かったね、アテロン」
「それもそうだけど、少しは僕達の事も考えなきゃね。この調子なら、少しずつウレムも買えるよ。3カ月後には9メキルは買える計算になる。あと1メキル位、頑張れば何とかなるさ。6月には結婚できるよ、ルミナ」
「嬉しい!」
二虫は上下の手を握り合った。
「あら?」
ルミナの下の手の中には、小さな壺が握らされていた。ペレス産の金属の中に、ヨレミカの石やカプリの石などがちりばめられている。
「まぁ、綺麗な油壺!これ、私に?」
「もちろんさ。開けてごらん」
ルミナは、壺を上の手に持ち換えると、顔の前で蓋を開けた。キュロの油の香りが辺り一面に漂った。
「こんなに高価なもの…ありがとうアテロン。大事に使うわ」
ルミナは自分のアゴを、優しくアテロンのそれに擦り合わせた。恥ずかしいのか、心持ちアテロンの顔が赤くなった。
「ルミナ、虫が見てるよ」
「いいじゃない、嬉しいんだもん。それに、私達もうすぐ結婚するんだし…」
その言葉に、今度はアテロンが、自分からアゴを擦り寄せて来た。3月の午後の日差しが、祝福するかのように、二虫を温かく包んだ。
「でも、教授は一体何の研究をしてるんだろう。何も聞かないのがアシスタントになる条件だって言っても、やっぱり知りたくなるのが虫心ってもんだよな、ルミナ」
「それはダメよ、約束なんだから。それにそんなに楽な仕事で、一日75ルーキンももらえるんだから、それで文句言ったら、ゲミ様があなたの油を取り上げて、『氷の海』に沈めてしまうわよ」
「そりゃ困るな。そしたら君の甘い油を分けてくれよ」
「エッチ」
突然、玄関の呼び鈴が鳴った。
ルミナは、一度玄関の方へ行きかけたが、慌てて戻り、机の上の油の壺をつかみ、ネックレスをはずしながら寝室へ行った。部屋の隅にある衣装箱の引き出しを開け、下着を一枚取り出すと、それで壺とネックレスをくるみ、引き出しの奥に押し込んだ。
再び呼び鈴が鳴る。
「ハ、ハーイ!ちょっと待ってくださぁい!」
ルミナはトイレに行き、トイレ用のヨキをわざと大きな音で引き出して、それを便器に流した。それから、涙をブラウスの裾で拭きながら玄関へ行き、ドアにチェーンが掛かっているのを確認した上で、慌てた口調で、「すいません、トイレに入っていたものですから」と、言いながらドアを開けた。
「ルミナ・ワタンカさんですね」
「は、はい、そうですが」
「速達です」
「あ、あ、どうも。ご苦労様」
ルミナは、隙間から手紙を受け取ると、ドアを閉め、配達の虫が去るまで、その場で息を潜めていた。寝室に戻り、ベッドに仰向けになった途端、さっきまでの慌てようにおかしくなり、独りで笑い出した。そして、封筒に目をやった。筆跡に見覚えはなく、差し出し主も書かれていない。
「なにかしら…」
ルミナは、おもむろに封を切り、中から4枚のヨキを取り出した。
* * *
ゲミ5087年9月18日
愛するルミナへ
君がこの手紙を読む頃には、僕は「氷の海」へと向かっているだろう。中央教会の手から逃れるには、あそこへ行く以外にはないからだ。
3カ月もの間連絡もしなかったのに、突然のことで驚いているだろうが、君に中央教会の疑いがかからないようにする為には、ああするしかなかったのだ。許してくれ。
2カ月前、テロンキア大学教授のクロロプ氏が、イェフベ山で事故死したのは君も知っていると思う。信じられないかもしれないが、教授は事故で死んだのではなく、殺されたのだ。それも、中央教会によって!
実は半年程前、クロロプ教授のアシスタントとして、大学の研究室で働いていた時に、僕はファイルの山の中から、全く偶然にも教授の極秘の研究論文を見つけて、それを読んでしまったのだ。実に驚くべき内容のものだったよ。今まで僕が読んだ、どの専門書にも載っていなかったし、勿論ゲミの聖書にも書かれていないものだ。間違いなく教授は、この研究をしていたために殺されたのだ。
それは謎めいた文の引用から始まっていた。
「神の子ゲミは、目に見えぬ死の息より蘇り、楽園の新たな
担い手として復活せり」(創世記前文)
僕も知らなかった事だが、ゲミの聖書の創世記には、前文があったのだ。教授は、古い書物の中から、この前文を見つけ出し、その意味を調べていくうちに、恐ろしい事実を発見してしまったのだ。「目に見えぬ死の息」とは何か、「新たなる担い手」とはどういう意味なのか。
君も知っていると思うが、我々はこの地球上で、最も古い歴史を持った生物の末裔だ。しかし、現在のような知能を持つようになったのは、およそ3億年前からだといわれている。ここまでは、中央教会も渋々認めている。しかし奴等は、我々がこの50億年に及ぶ地球の歴史に於て、常にリーダー的存在であったと説いて来た。ところが教授によると、5億年前の我々の先祖は、六つ足で地面を這い回っていて、大きさも、現在の我々の触覚程の小さな生物だったというのだ!「万物の霊長」である我々が、「サヴァヴの奇跡」でこの世に出現したのではなく、まるでそこらの哺乳類のように、小さくて汚らわしい生き物から「進化」したというのだ!教授は過去何度も教会の掟を破って、禁断の地である「氷の海」へ行き、五億年前の地層を調べていたらしい。そしてその地層から、ゲミの本当の姿を発見してしまったのだ。その膨大な資料から、このことを疑う余地はない。しかし、本当に恐ろしい事実は、我々が単なる下等な昆虫であったこの時代に、現在の我々のような知的生物が地球上に存在していたということだ!信じられないかもしれないが、彼等は哺乳類の一種で、教授は「ヒト」と呼んでいる。「氷の海」にある5億年前の地層のほんの数百年分程の部分に、おびただしい数の「ヒト」の化石が、ほとんど完全な状態で残っていたのだ。教授によれば、「彼等も二本足で歩行し、脳の容積も我々とそう変わらない580メキル弱あった」らしい。さらに、「彼等は、現在の哺乳類のように『歯』を持っていて、その多くはペレス産のものと同じ金属で覆われてあったり、原始的なセラミックで代用されていることから、かなり虫工的(ヒト工的と呼ぶべきか?)な食生活を営んでいたと考えられる」と教授は言う。同時代の地層から多くの金属性の機械の部品のようなものも発掘されていて、それらが非常に高度な精密機械になり得ることから、あくまで可能性としながらも、「空を飛ぶ技術さえ持っていたかもしれない」とも書かれている。羽を持たない哺乳類がもし知能を持っていたとすれば、考えられなくもない。しかし不思議なのは、その非常に薄い地層より後の地層からは、彼等の化石が見事にひとつも見あたらないのだ。つまり何らかの要因で、絶滅してしまったらしいのだ。教授は、その時代よりさらに1億年程前、つまり今から約6億年前に、ある程度進化したトカゲ類(教授は、120年前に最後の種が、心ない密猟虫によって殺され絶滅した、鳥類かもしれないとも記している)が、やはり「ヒト」と同じように、忽然と地球上から姿を消してしまった例をあげ、「巨大隕石の衝突による環境の大異変によるものではないか」と、考えている。しかしそのすぐ後に、「トカゲ類とは比較にならない程高度な知能を持っていたこと、そして彼等の地層から多量の放射能が検出されることから、あるいは『ウレムの力』の秘密も知っていて、その使い道を誤ったことにより、自滅したのかもしれない」ともある。「ウレムの使用方法に誤りがあると叫ばれている現代への、貴重な教訓になり得る」と教授は言う。そう言われてみれば、確かに最近の中央教会の強引な政策は、広大な地域の放射能汚染と多くの被爆虫を生み出している。
面白い資料の中に、「宗教」がある。教授は、数多くの装飾品らしき物の中に、同じような十字の形をしたものや、文字とも印とも言えない十字と斜めの線が描かれた丸い型をした物が多くあること、あるいは、何かを通すように穴が空いている小さな丸い石が、化石のそばから多量に出てくることから、幾つかの違った宗教が存在していたかもしれないと考えていたようだ。教授は、「総合的『神』の解釈の欠如の証拠であり、それが彼等の知能の限界であったのかもしれない」と言っている。また、「複数の宗教の存在は、その本質を失い、互いに自己の真実性を巡って争いを生み、最終的には互いの存在を否定し合うことによる、殺し合いにまで発展したかもしれない」とも言っている。これは、現代のゲミ教のあり方を考えると、恐ろしいほど類似している。
ここまで書けば、創世記前文が何を意味しているかは、幼虫にだって分かるだろう。「目に見えぬ死の息」は放射能で、その死の世界から蘇った、「新たなる担い手」である我々ゴキブリは、かつて哺乳類によって支配されていたのだ。今、ゴミ溜めでうごめいている彼等は、皮肉なことに、我々昆虫の中に5億年前の自分達の姿を見ているのだ。
僕は、ミプロ・クロロプ教授とその偉大な研究に感謝せざるを得ない。そして、教授の最後の忠告を君にも聞いて欲しい。
現代の若者は、表面的な物欲主義に我を失い、ペレス産の
金属を触覚に付け、キュロの油で自らを飾り立てるばかり
で、内面的な向上には目もくれない。大人達は、温暖化の
進む地球を救うことよりも、ウレムを買い集め、それを中
央教会に献上する報酬として手に入れることができる、ま
だ誰も見たことも無い宇宙の新たな土地を求めることで、
頭が一杯だ。子供達は、大人になってから、より多量のウ
レムを得るために、効率よくルーキンを稼ぐ為の知識を詰
め込まされ、老人は、ゲミの力にすがるために、教会で何
時間も唯々祈り続けている。そのゲミの教えも数千年の間
に細分化し、対立する教えを説く教会すら出てきた。これ
では5億年前の「ヒト」と何等変わりがないではないか。
私のこの研究は、中央教会政策の遂行に支障をもたらす
ものとして、抹消されてしまうかもしれない。否、私自身、
反逆罪に問われ、酸欠剤を飲まされることになるであろう。
しかし私は、地球が再びあの5億年前のような事態になら
ないために、そしてその根本原因が、我々ゴキブリ類とな
らないようにするために、ここに、長年にわたる研究を発
表するものである。
ゲミの御加護がすべてのゴキブリ兄弟の油に注がれん事
を祈る。
愛するルミナよ。僕は、クロロプ教授の後を継ぐ。「氷の海」へ行き、教授の説をより確かなものにするために、研究を続けなくてはいけないという、ある種の使命を感じている。これは全ゴキブリ種に関わる問題なのだ。この3カ月、君に地獄のような日々を過ごさせたあげく、直接逢って「サヨナラ」も言わずに、「禁断の地」へと一虫逃亡するこの僕を許してほしい。出来ることなら、君の油のあの甘い香りを、もう一度だけ胸一杯に吸い込みたい。君をあの時一緒に連れていこうとも思ったが、僕自身「禁断の地」が一体どういう所なのか知らず、せめて僕が何とか落ち着いてから、何らかの方法で君を迎えに行く手段を考える方がお互い安全だと思う。1、2年の間に必ず連絡をするよ。芝居だったとはいえ、婚約をとりやめてしまったを、許してくれとは言えないが、僕の油とゲミの名にかけて、これだけは言わせてくれ。僕は君を愛している。
君のアテロンより
追伸…この手紙は読み終えたら焼き捨ててくれ。君自身の安全のために。
* * *
ルミナは、聖カムロア短大へ通じる大通りを歩いていた。街路樹の葉の間からこぼれ落ちる9月の日差しが、まるでアテロンの抱擁のように、彼女を優しく包んでいる。ルミナは、油壺を下の手に握り締めながら、昨日受け取ったアテロンからの手紙のことを思い出していた。
今まで中央教会が説いて来たゲミの歴史とは180度違うクロロプ教授の学説が、もし本当に正しいとすれば、ゴキブリが現在のように発達した脳を持ち、「万物の霊長」としてこの地球上に君臨しているのも、そう長くはないような気がした。昆虫と哺乳類という決定的な違いがあるにせよ、たどり着く終着点は、「絶滅」という共通した方向へ向かって邁進しているように思えた。それも、とてつもない速さで。
恐らく中央教会の最高幹部会の虫達は、古くから伝わるゲミの創世記の原本のようなものを持っていて、ゲミの本当の歴史を知っていたに違いない。中央教会が「氷の海」を禁断の地としたのは、その環境の危険性もさることながら、その地層に隠された過去の秘密が表面化するのを恐れていたからなのだ。虫々がゲミ教の教えを信じ、中央教会の言う通りに行動してくれれば、教会はその巨万の富と共に、永久に安泰であるはずだった。そのことは、幹部会員の選出方法が、未だに世襲制に執着していることによって裏付けられる。地方自治体にしても、長年にわたる単独政権のために、財閥との癒着が益々顕著になって来ている。
堕落した指導虫に洗脳された部族の行く末は、セグロオオアリを初めとする他のアリとの戦いで、400万年前に絶滅したミツメジュウモンジアリの例をとっても明らかである。かなり発達した知能と、アリ本来の社会性が生んだ悲劇であるが、そのリーダーであった通称ヘットールの愚行が全ての引金になったことは、あまりにも有名である。セグロオオアリのような、比較的小型のアリ達をアリとして認めることを拒み、ミツメジュウモンジアリこそアリの本来の姿であるという選虫意識を、教育の力によって部族の隅々にまで浸透させ、その考えに基づいて無理やり戦争を起こし、ひいてはミツメジュウモンジアリを絶滅にまで追いやった彼の罪は、今で言えば酸欠剤を10粒呑んでも足りないくらいだ。最も、断頭台の上での彼の悲惨な最後こそ、酸欠剤投与よりも彼にはふさわしかったかもしれない。そういった過去の教訓があるにも拘わらず、中央教会は地球上の全ての生き物を敵にまわし、現代のヘットールを演じようとしているのだろうか。そしてそれは、五億年前の「ヒト」と呼ばれる哺乳類と、同じ道なのだろうか。
我々一般のゴキブリは、そうやって繰り返される歴史の中で、なす術もなくその流れに身を任せることしかできないのだろうか。間違っていると知りながらも、クロロプ教授が言うように、「ゲミの力にすがるために、唯々教会で何時間も祈り続ける」ことしかできないのだろうか。それがゲミの聖書が言う、「永遠の摂理」なのだろうか。確かに医学の発達は、ゴキブリの平均寿命を飛躍的に延ばしてきたし、科学の力は、虫を宇宙に進出させるまでに至った。また、あらゆる芸術は、ゴキブリの文化を益々素晴らしいものにしてきてくれた。しかしこれらすべてのことも、我々が自滅するための準備に過ぎないと言わなくてはならないのだろうか。だとすれば、何のために虫は愛し合い、子を増やしているのだろう。何のためにこの世に生まれ、今を生きているのだろう。
ルミナは、限りなく溢れ出る疑問に、アテロンならどう答えるのだろうと思った。アテロンに逢いたい。逢って話がしたい。
ふと気がつくと、ルミナは「出会いと別れ」と書かれた看板の前に立っていた。
「ここなら買い取ってくれるかもしれない…」
ルミナは、小さな呼び鈴が付いた古めかしい木戸を開けて、薄暗い店内に入った。埃臭い店の中には、ありとあらゆる骨董品らしき小物が、雑然と置かれてあった。ルミナはその中に、明らかにキュロの油が入っていたと思われる、ペレス産の金属でできた埃まみれの油壺をみつけた。それを手にとって見ようとしたとき、奥から低い声が聞こえてきた。
「それには触らんほうがええ」
その声に驚いたルミナは、引っ込めた手で、危うく近くの花瓶を落としそうになった。
「ご、ごめんなさい。あんまり綺麗なものだから、つい…」
振り向いたルミナの前には、100歳に手が届きそうな老婆が立っていた。老婆は古めかしいマントを羽織っていて、ゲミの聖書に出てくる「予言の魔女」のようだった。
「そう、確かにその油壺は美しい。じゃがその美しさは、悲しみに満ちておるんじゃよ。ん、今のおまえさんのようにな」
「私のように?」
「訳は聞かんが、今のおまえさんの目は、深い悲しみの涙でできた海の底のように、光を失っておる」
ルミナは、老婆の指摘に驚いた。今は誰にも心の中をのぞかれてはならないのに、この老婆にはすべて見られているような気がした。
「実はこの油壺を買っていただきたいんです」
「ほう、キュロの油壺だね。そんなことじゃないかと思ったよ」
老婆はルミナから油壺を受け取ると、上の手や下の手に持ち替えながら、しみじみとそれを眺めた。
「町中のお店に行ったんですけど、どこも買い取ってくれなくて…」
「そりゃそうじゃろう。こんなに深い愛に溢れた油壺を手放すことほど、縁起が悪いことはないからのう。買い取った方まで不運を背負うことになる。彼は事故か何かでゲミ様のもとに召されたのかい?」
「い、いえ、彼は生きています…と、思います。私、彼にふられちゃったんです」
ルミナは、できる限りの演技でそう言った。
「それは妙じゃのう。この壺は、彼の愛に満ちておる。おまえさん達、虫には言えない何かがあったようじゃのう」
ルミナは、このままでは、この老婆にすべてを話さなくてはならなくなりそうな気がして、少しいらいらして来た。
「買い取ってくださらないんでしたら、隣町へ行って…」
「おや、気分を害してしまったんなら謝るよ。ほれ、こんなもんでどうかい?」
老婆は、近くの引き出しから財布を取り出すと、1000ルーキン札を5枚抜き取り、それをルミナの下の手に握らせた。
「お、お婆さん、いくらなんでもこんなには…」
「おや、これじゃ足りんのかい。それじゃ、もう一枚」
老婆は、拒もうとするルミナの手のひらに、強引に1000ルーキン札を握らせながら微笑んだ。
「何があったか知らんが、今はこれでも足りんくらいじゃろう。買い戻したくなったらまたおいで。いつでも50ルーキンで売ってやるよ。どうせ、こんなに縁起の悪いもんは誰も買わんからのう」
「お婆さん…」
老婆は、思わず抱きついてきたルミナを、温かく抱擁しながら一緒に涙を流した。
「こんなおババでも、若い頃には命を張った恋をしたもんさ。そこの油壺は実はわしのでな、その中にはあの頃の思いが一杯詰まっておるんじゃよ。わしの壺には悲しみだけしか詰まっちゃおらんが、おまえさんのこの壺には、もっとふさわしいものを詰めておくれ。きっとまた来るんだよ」
「ありがとう、お婆さん」
「さぁ、もうお行き。ゲミ様の御加護がおまえさんの油に注がれることを祈ってるよ」
「お婆さんの油にも、惜しみ無く注がれますように…」
ルミナは、最後に深々とお辞儀をして店を出た。
聖カムロア短大へ向かって歩きだしたルミナの足取りは、少しだけ軽くなっていた。これで表面上は、ルミナとアテロンの仲は、完全に切れたことになる。何よりも大切なものを失うことは悲しかったが、それにこだわることでルミナに疑いがかかり、最終的にアテロン自身を失うことになるよりはいい。婚約の証であるキュロの油壺を手放すことは、ルミナ自らを守り、ひいてはアテロンの命をも守ることにつながる。これは、アテロンの芝居に裏付けられて、完璧なカモフラージュになるだろう。
今のルミナにとって、アテロンに関係するものを一つでも持っていることは、非常に危険であった。いつ何時、中央教会の手入れがあるか分からないからだ。手紙と写真は、すべて昨日のうちに暖炉で燃やしてしまったし、歯のペンダントは、金づちで粉々に砕いて、トイレに流してしまった。ただ、歯に埋め込まれていたペレス産の金属だけはどうすることもできなかったので、形を変えただけで、そのまま違うネックレスのペンダントとして残しておくことにした。淡水で取れる真珠のように抽象的なオブジェとなったこの金属が、五億年前の哺乳類の歯から取れたものだとは、誰も想像すらしないだろう。しかしもしかすると、同じペレス産の金属も、専門家から見ればその年代が分かってしまうかもしれない。だとすれば、いくら形を変えたとしても、持っているのは危険ではないだろうか。
「そうだわ、あのお婆さんにもらってもらおう」
ルミナはポケットの中のネックレスを確かめながら、「出会いと別れ」に向かってもと来た道を歩き出した。
街路樹に沿って、大きなカーブを曲がって行くと、「出会いと別れ」の看板が見えてきた。その時、店の中から一虫の男が出て来た。その男はルミナを見るなり、一目散に反対側へ走り去った。服装は違っていたが、顔には見覚えがあった。学生とはいえ、毎日多くの患者と接するルミナは、虫の顔は一回見れば忘れない。だがその男は患者ではなく、どこか違う所で見た覚えがある。そうだ、一昨日短大の学食で見た男だ。いや、その前にも見たことがある。ルミナはその時、初めて自分が何虫かにつけられていることに気がついた。だとすれば、あの男は「出会いと別れ」の老婆に何かを聞き出していたに違いない。ルミナは慌てて店に入ると、老婆に話しかけた。
「お婆さん、今の虫…」
「おや、もう戻って来たのかい?今の男なら心配いらないよ。おまえさんの油壺の代わりに、因縁付きのわしの壺を売ってやったよ。バカな奴さ、あんな壺に10000ルーキンも払いおって。金も運も無くしおった。やっこさん、おまえさんの大学友達だなんて言ってさ。ふん、このわしの目をごまかせるとでも思ったのかね。年はとっても、いい奴と悪い奴の油の匂いくらいは嗅ぎわけられるよ」
「どうもありがとう、助かったわ」
「お礼を言いたいのはこっちの方さ。わしゃ、久々に興奮しとるよ」
そう言うと老婆は、微笑みながら、マントの内ポケットから、小さなペンダントが付いたネックレスを取り出した。
「これは古くからわしの部族に伝わる、『ゼブの心』と呼ばれるお守りじゃ。おまえさんに逢ったのも何かの縁、これを持って行きなさい。わしの油とゲミ様の名にかけて、わしゃおまえさんのことを他言しないよ。このお守りは、その証じゃ」
「でも、大切なものじゃないんですか?」
「わしゃもう年じゃ。持っていても何の役にも立たん。それにおまえさん、見たところタゴードゥ族のゴキブリじゃろう。わしらゼブ族の虫は、1024年の大飢饉の時に、おまえさん達タゴードゥの虫々に助けられた恩を決して忘れちゃいないよ。過ぎたことだと言うかもしれんが、わしらゼブ族が今あるのも、みんなタゴードゥ族のお蔭なのじゃよ。このお守りは、小さな恩返しだと思っておくれ。きっと役に立つよ」
「わかりました、ありがたくお借りします。そのかわりと言っては何ですけど、これを受け取ってください。タゴードゥのルミナのお守りです」
ルミナはそう言うと、ポケットから自分のネックレスを取り出して老婆に渡した。
「ルミナのお守り?はて、『タゴードゥのルミナ』の話しというのは聞いた覚えがないのう。そのお方は、タゴードゥ族に伝わるゲミ様の使徒様か何かかい?」
「あらいやだ、お婆さん、ルミナは私です」
「おぉ、そうじゃったか。おまえさん、ルミナというのかい。いい名だねぇ」
「ありがとう。お婆さんの名前は何ていうの?」
「わしの名前なんぞ知らんでいい。ゼブのババァとでも呼んでおくれ」
ルミナは、老婆の表情が急に変わったのを見て、おそらくこの虫も、他虫には知られたくない何かがあるのだろうと直感した。そうであるとすれば、余計なことは聞かない方がいい。
「それにしてもこのお守り…不思議な輝きを持っておるのう」
老婆は話をごまかすように言った。
「見たとこペレス産の金属のようじゃが、どこか違う。それに、今のおまえさんの心を表しているかのように、涙の滴のような形をしておる」
ルミナは、老婆の鋭い感覚に一種の恐怖感を覚えた。と同時に、この虫になら何もかも話せるかもしれないという気もした。だがそれは、この身も知らずの老婆を、巨大な危険の渦の中に巻き込むことになる。そんなことはできない。
「お婆さんお願い、もう何も聞かないで…」
ルミナの言葉に全てを察したのか、老婆は黙って頷くと、もう何も言わなかった。そして2虫は、無言のまま抱き合い、静かに泣いた。黙って店を出て行くルミナを見送る老婆の胸元には、金色の涙のペンダントが悲しく輝いていた。
ルミナは店を出ると、再び聖カムロア短大へ向かって早足で歩き出した。急がないと、「神経学」の授業に遅れてしまう。触覚のどの部分に何の神経細胞があろうが、今のルミナにとってはどうでもいいことだったが、以前と少しでも違った行動をとることは、なるべく謹まなくてはならない。アテロンが消息を断つ3カ月も前に別れたとはいえ、中央教会が彼女に目を付けていることは、「出会いと別れ」でルミナの壺を買い取ろうとした男の存在からも明らかだった。ルミナは、辺りを見回したい衝動に駆られながらも、なるべく平静を装って、聖カムロア短大付属病院の横に建ち並ぶ巨大な建物の一つへと入って行った。
授業中も、ルミナの頭の中はアテロンのことで一杯だった。キュロの油壺さえも手放した今、アテロンはルミナの心の中だけに存在していた。しかしそうすることで、ルミナのアテロンに対する気持ちは、以前にも増して深くなったような気がするのだった。誰にも知られてはならない秘密ができたことで、なぜかルミナは興奮していた。それは、好きだとも言えずに心の中で秘かに思い続けた、幼い日々の初恋にも似ていた。アテロンを愛する自分と、その気持ちをひたすら隠さなくてはならない自分。今日からルミナは、心の中に常に二虫の自分を意識させておかなくてはならないのだ。相対する二つの自己が、一虫の中で葛藤を繰り返すことは、精神衛生上非常によくないことはよく知っていたが、本質であるアテロンへの愛を忘れなければ、自分を見失うこともないような気がした。問題は、この状態があとどのくらい続くのかということだ。アテロンは1、2年と言ったが、その保証はどこにもない。5年になるのか、10年になるのか、あるいは明日かもしれない。しかし、それまでアテロンが生きているかどうかも定かではない。今、アテロンが生きているかどうかさえ、ルミナには知る術もないのだ。ルミナは、思わず胸元の「ゼブの心」を握り締め、一心に愛するアテロンの無事を祈った。教室の窓から注がれている暖かい日差しに反射して、涙で濡れたルミナの目は、真冬の満月のように悲しく輝いていた。
次の授業は、必須科目の「ゲミ教概論」だった。以前のルミナには、この授業は非常に興味深いものであったが、今は、苦痛と怒りを感じさせる以外の何物でもなかった。しかしその怒りは、ゲミ教そのものに向けられるものではなく、中央教会のマニュアルに沿った欺瞞的な聖書の解釈を、一方的に押し付けようとする教授に対するものであった。創世記にある「サヴァヴの奇跡」にしても、書かれている事象をそのまま現実に起こったものとして信じるのは、あまりにも非科学的である。
神の子ゲミがお生まれになると、サヴァヴはすぐにゲミに命じられた。
「我が子よ、目覚めよ」と。ゲミが目を覚ますと同時に光が生まれ、暗
闇の中から、見渡す限り不毛の砂漠と、透き通るように青い空と、太
陽とが生まれた。神であるサヴァヴは言われた。「我が子よ、この世
界はお前のものだ。生かすも殺すも、お前次第である」と。神の子ゲ
ミは答えた。「姿なき父よ、ここには生きているものは私しかおりま
せん。私一虫で、この世界をどうして生かすことができましょう。ま
た、生きてもいない世界を、どうして殺すことができましょう」。す
ると神であるサヴァヴは言われた。「我が子ゲミよ、目に見えること
だけでは真実を語ることはできない。目覚めるということは、同時に
心も開くということである。我が子よ、足元を掘ってみなさい」神の
子ゲミは、言われるままに蹄ずき、足元の砂を一心に掘った。しかし、
砂はすぐに掘っている穴に流れ込み、いつまでたっても掘ることがで
きなかった。ゲミの上下の手は傷つき、傷口からは体液が流れ出た。
神の子ゲミは天を仰ぎ、言った。「姿なき父よ、これではきりがあり
ません。掘っても掘っても砂ばかりです」この言葉に、偉大な創造主
は答えられた。「目の前の砂を、目で見るのではなく、その下にある
ものを心で見よ」と。
そこで我らが主ゲミは、左の上手で目を覆い、再び足元の砂を掘り
始めた。すると何か冷たいものに右の上手が触れた。左の上手をどけ
て見てみると、それは黒い油であった。すぐに油は、凄まじい勢いで
天に向かって吹き出した。しかし油が天に届く前に、光でできた太陽
の熱で火がついてしまった。36日もの間油は燃え続け、その煙で、
青い空は一面の黒雲に覆われてしまった。黒雲に誘われ、激しく雨が
降り始め、その後36日間一時も止むことがなかった。雨はゲミの掘
った穴に溜まり、油の火を消し、さらに流れ込む雨水によって、巨大
な海ができた。その岸辺に打ち上げられた無数の油の塊に、偉大なる
創造主サヴァヴが息を吹きかけると、たちまち神の子ゲミと同じ姿形
をした、ゴキブリとなった…
この「サヴァヴの奇跡」で、我々はこの世に生まれたのだと聖書は言っている。一般のゴキブリには知らされていない創世記の前文と、その正しい解釈と思われる、今は亡きクロロプ教授の研究成果を全く知らなかったとしても、現代のゴキブリに、この「サヴァヴの奇跡」を文字通り信じさせることはできない。
現代の多くの研究虫達が言うように、この「サヴァヴの奇跡」には、色々な事柄が、比喩的に語られていると考えるのが普通だ。それでも、縁起をかついだり伝統を守るという意味で、この話に出てくる多くのことが、そのまま実生活に反映されているというのも事実である。ゲミが「黒い油」に触れたのが右の上の手だったことから、生まれたばかりの幼虫に初めて触れる時は、必ず右の上の手でなくてはならないとか、「黒い油」を命の源、あるいは創造の源と考えて、作家や芸術家達が仕事をする時には、必ず右の上の手にペンや筆を持つというのも、ここから来ている。結婚式に行う「サヴァヴの儀式」などは、創世記に出てくる事柄の再現である。命、あるいは魂の代名詞である油を、我々の体に見立てた油壺に入れ、それに36滴の聖なる水を注ぐことで、何億年もの歴史を持つ我々ゴキブリの先祖達に、番となる許しを得、新たな歴史を築いていく担い手として、互いに一生愛し合うという誓いを立てるのである。キュロの油が発見されるまでは、男達は、「月夜の森」の北にある「太陽の砂漠」まで飛んで行って、そこから本物の「黒い油」を持って来なくてはならなかったというから、結婚はそれこそ命懸けだったに違いない。
ルミナは、この「サヴァヴの奇跡」をもう一度考え直さなくてはならなかった。書かれている事を、表面的に信じるのはある意味では簡単だが、その言葉の奥に秘められた、過去の知恵や思慮の深さを理解するのは大変である。現在の聖書にしても、何億年という長いゴキブリの歴史の中で、幾度となく書き換えられて来ただろうし、そのたびに個虫的な解釈が加わって、表現や内容に若干の改良や改悪がなされてきただろうことは、容易に想像できるからだ。なぜ我々ゴキブリが命を与えられる前は、「黒い油」でなくてはならなかったのだろう。植物から取れる「黄金の油」や、動物の屍から取れる「白い油」ではないことは、我々が昆虫であることから納得できる。しかし、土でも水でもなく、なぜ「黒い油」なのだろう。それには、何か深い意味があるに違いない。
ルミナは、海水と混じり、塊となって岸辺に打ち上げられた時の「黒い油」が、どんなに地球の環境を破壊し、あらゆる生態系に悪影響を与えるかを良く知っていた。4008年に起こった「サヴァヴの怒り」の後、「津波の海」を見渡す海岸一体には、40年もの間、下等な哺乳類でさえ一匹も生息できなかったのだ。ルミナが高校の卒業論文の題材としてこの問題を取り上げようとした時、学校側は、「黒い油」の神聖さを損ねる危険性があるとして、これを許可しなかった。中央教会や学校は、現在「怒りの山」と呼ばれているイルサヴァーヴェ山の異変が直接原因であり、その山の名前が、古代語で「神はそこにおられる」という意味があることから、堕落した虫族に対するサヴァヴの怒りであり、犠牲となった多くの生物達は、その見せしめであると言い切った。中央教会の教えが絶対だと信じていた当時のルミナは、「サヴァヴの怒り」に恐れをなして、それ以上この事件のことを考えるのを止めてしまった。しかし、アテロンと知り合い、特にクロロプ教授の話を聞くようになってから、ルミナの頭の中に再びこの事件が蘇り、その後、この事実について秘かに調べていたのだった。
一度火が付くと、自らが焼き尽くされるまで燃え続ける「黒い油」。たとえ火が付かなくても、大量に放出されると、たちまち死の世界を創ってしまう「黒い油」。しかしその膨大なエネルギーの扱い方次第で、この温暖化の進んだ地球を救う手段ににもなり得る「黒い油」。善と悪の両面に於て、途方もない可能性を秘めたこの「黒い油」が、我々ゴキブリだと聖書は言っているのだろうか。もしかすると聖書は、生命を弄び、悪戯に神の領域に手を出し、自らを過信して「万物の霊長」と崇め、それこそ天にも昇る気持ちでいると、「サヴァヴの怒り」という火を付けられ、取り返しのつかないことになるということを、暗示しているのではないだろうか。そして本当の意味での「サヴァヴの怒り」とは、自らの種のみがこの地球上で繁栄しようとすると、他の生物を死に追いやり、結果的には自らも滅ぼしてしまうという訓示だったのではないだろうか。
ルミナはこの時初めて、クロロプ教授の最後の忠告の意味の深さに気が付いた。
これでは5億年前の「ヒト」と何等変わりがないではないか…
現代のゴキブリの在り方を考えると、まさしく我々は、5億年前の「ヒト」と同じように、自滅への道を確実に歩んでいる。創世記に記されている黒雲から降ってくる雨は、サヴァヴの涙であり、その息は、愚かな「万物の霊長」への大いなる慈悲なのだ。聖書は、過去の教訓を後の世に伝える書であり、同時に未来の予言の書でもあったのだ。しかし、もしそれがゴキブリだけでなく、今までもこの地球上に出現したであろう知的生物の宿命であり、「永遠の摂理」であるなら、なぜ神は再び大いなる慈悲をもって、新たな種に息を吹きかけるのだろう。なぜ、こんなに色々な事を考えることができてしまう脳を持たせてしまうのだろう。そんなに偉大な力があるのなら、なぜ最初から正しい考えしか持たない生物を創らないのだろう。なぜ我々ゴキブリを選んだのだろう。
ルミナは苦しかった。知らない間に「ゼブの心」を握り締めていた右の上の手に、止めどもなく涙がこぼれ落ちた。そして、こんなことを考えているうちにも、無意識に右の上の手を使わせる程ゲミ教が浸透している自分に気がついて、恐ろしくなった。何をどうしていいのか、どう考えればいいのか分からなくなって、ルミナは思わずアテロンの名を呟きそうになった。
その時、右横から男の手が伸びて来た。ルミナの目には涙が溢れていたので、そのまま気が付かずに抗議を聞いているふりをせざるを得なかった。するとその手は、ルミナの前に置いてある教科書の上に、何か小さな物を置いた。ルミナが恐る恐る下を見ると、なんとそれは、「出会いと別れ」で見たあの老婆の油壺だった。
ルミナは動揺を隠せないまま、ゆっくりとその手の持ち主の方へ振り返った。
(あの男だ!)
思わず立ち上がって逃げ出しそうになったが、授業中ということもあり、辛うじてその衝動を押さえた。
男は微笑んでいた。「出会いと別れ」で見た時の脅えた気配はなく、嫌味のない笑顔ではあったが、同時に、「何もかも知っているぞ」と言わんばかりの冷笑ともとれた。どうしていいのか分からずに、唯、見つめているルミナに、男は1枚のヨキを渡した。
* * *
ルミナ様、
突然の事でさぞ驚いているこでしょう。すみません。僕はユイダーゴという虫です。僕は医学部4回生で、ルミナさんとは色々な授業で一緒になっているんですが、多分気付いてはもらえていなかったと思います。
僕はもう1年も前から、ルミナさんに交際を申し込もうとして何も出来ずにいる、情けない虫です。本当はこんな形で話をするつもりではなかったんですけど、最近のルミナさんがあまりにも悲しそうな顔をしているので、つい余計な事をしてしまいました。
実はルミナさんが、テロンキア大学の学生と付き合っていたのは知っていました。そしてその虫と、最近逢っていないのも知っています。今日、ルミナさんが偶然あの店に入って行くのを見たので、ルミナさんが去った後で、店主のお婆さんに事情を聞き出して、キュロの油壺の話を知り、余計な事とは思いましたが、思わず買い戻してしまいました。あの時は、まさか戻って来るとは思わなかったので、失礼な態度をとってしまってすみませんでした。正直言って、キュロの油壺を受け取る程の仲になっていたとは知らなかったのでショックでした。
でも、何があったのかは知りませんが、キュロの油壺を売るのはよくありません。たとえあのテロンキア大学の彼が、ルミナさんをふってしまったとしても(そんな男がこの世にいるなんて信じられませんが)、キュロの油壺を売ってしまうなどという、縁起の悪い事は決してしてはいけません。貴方の一ファンとして、貴方には不幸せになってもらいたくないのです。本当に勝手な事をしてしまってすみませんでしたが、この油壺だけは決して手放さないようにしてください。お願いします。
ゲミ様の御加護が、貴方の油に惜しみ無く注がれますように…
ユイダーゴ
* * *
ルミナはどうしたらいいのか分からなかった。このユイダーゴという男が本当に
何虫なのか、全く見当が付かなかった。今まで交際を申し込んできたどのゴキブリより消極的で、それでも誠実さを感じさせる、不思議な雰囲気を持った男に思えた。少なくとも、多くのゴキブリ達がそうであったように、ルミナの体が第一の目当てではなさそうなことだけは感じ取れた。しかし、これがもし中央教会の巧妙な罠だとしたら、突然目の前に現れたこの男を近づけるのは危険すぎる。今のルミナは、誰も信用してはいけないのだ。
とてつもない恐怖感と闘いながら、ルミナは自分のノートからヨキを1枚抜き取り、走り書きで返事を書いた。
* * *
ユイダーゴ様、
本当に突然の事で驚きました。私のような虫に対する、貴方の優しさと思いやりに感謝いたします。あのテロンキア大学の彼は、突然私を捨ててどこかにいなくなってしまいました。他に好きな虫ができたというのも彼から聞きました。もう3カ月も何の連絡もないことを考えると、やはり私は本当にふられてしまったようです。ひどい話ですが、そんな男からもらったキュロの油壺などは、持っている方が縁起が悪いと思ったので、あの店のお婆さんに引き取ってもらったのです。ですからこの油壺はお返しいたします。どうかご理解ください。
貴方の油がゲミ様の祝福の下で、より美しく光輝きますように…
* * *
わざわざ「3カ月も連絡がない」などと書くのは、少しわざとらしい気もしたが、アテロンとの仲が完全に切れていることを強調しておくに越したことはない。たとえこのユイダーゴという男が、中央教会と何の関係もないとしても、ルミナの周囲にいる虫として、教会がマークしていないとも限らない。だとすればなおさらのこと、全く無関係なこの虫を彼女に近づけるわけにはいかない。聖カムロア医科大に通うほど博識なゴキブリに、ルミナの結びの言葉が、かの有名なグロッスムの「月夜の森の奇跡」からの引用だとわからないはずはない。
* * *
あぁ、リオート!貴方の油は何と美しく光輝いているのでしょう!
この「月夜の森」の「針の木」さえ、その恐ろしい牙を背けてしまうとは!
あぁ、しかしリオート!
私は月夜に生きる女。夏の夜に、静かに踊る蛍の光。
貴方の光の中では、この身は焼け落ちてしまうでしょう。
あぁ、リオート!さようなら。
貴方の油がゲミ様の祝福の下で、より美しく光輝きますように…
* * *
ルミナには、ユイダーゴがいつ席を立ったのかわからなかった。振り返ると、机の上に1枚のヨキが置かれてあり、そこには「おぉ、全能なるサヴァヴよ!我に力を!」とだけ書かれてあった。成就できないと知りながら、モーナへの永遠の愛を誓ったリオートの最後の言葉だ。よりによってその言葉を残して去るとは、ルミナは想像もしていなかった。いくら同じ授業を受けていたとしても、医学部の学生と短大の学生では科目が限られている。学食で偶然出会うとしても、過去数回がいいところだろう。そんな虫にそこまで惚れてしまうことなどあるのだろうか。
「いけない、いけない。何をナイーヴなことを考えているのかしら。少しキザな虫なら誰でも考えそうな手だわ」
そう呟きながらも、ルミナはユイダーゴの曇りのない黒い瞳を思い出していた。
* * *
その後ルミナは、何もなかったように学生生活を続けていた。相変わらずユイダーゴは付きまとっていたが、特に目立った行動もとらず、ルミナの普段の生活を邪魔するようなこともなかった。
ルミナは、アルバイトをしつつ、少しずつ貯めたルーキンで、キャンプ道具を揃えていった。「禁断の地」への長旅に備えて、飛行訓練も毎日数時間行った。怪しまれないように、友達たちとキャンプや旅行にも行くように心がけた。
そしていつ来るとも知れぬアテロンからの知らせを待ちながら、数ヶ月が経った。
そんなある日のこと、短大からの帰り道、ルミナは、何となく怪しい虫影を見た気がした。マントをまとった虫がルミナをつけているようなのだ。中央教会の回し者だろうか?しかしルミナはこれまで、考えられる限りアテロンとの繋がりを絶っているはずだ。それに中央教会がルミナに何かをしようとするのならば、とっくに出来ていたはずだ。きっとただのいやらしい中年虫か何かだろうと信じたかった。ルミナは住んでいるアパートから離れるように、急ぎ足で虫混みの中を歩いた。5分も色々な所を歩いていれば、大抵の虫は諦めるのだったが、マントをまとった男は、それでも必要にルミナを追いかけて来た。恐ろしくなったルミナは、近くの知り合いの食料品のお店の中を通り、裏の出口から反対側にある別の通りに出た。この通りも虫通りが多く、もうあの男にルミナを見つけだす事は不可能だった。安心したルミナが歩き出そうとした瞬間、あのマントの男が目の前に立っていた。ルミナの心臓が凍った。
「お前ルミナ。その『ゼブの心』がルミナの印。これ読め」
男はそう言うと、ルミナに何かを渡し、ものすごい勢いで走り去って行った。一瞬ではあったが、マントの男の腕に刻まれた入れ墨が、「ゼブの心」に掘られていたものと同じだったのをルミナは見逃さなかった。あの男は間違いなくゼブ族のゴキブリだ。ルミナは暫く何が起こったのかわからずその場にたちすくんでいたが、ふと左の下の手に渡された1枚の皮の切れ端に気付き、それを恐る恐る開いてみた。そこには奇妙な文章が記されてあった。
「新月が再び太陽の光に照らされんと欲するならば、
ガルゴンの目が閉じる時、ヴェルガの谷より、メターローとの間を進むべし」
ルミナは、込み上げてくる涙を押さえることが出来なかった。
ルミナが育ったタゴードゥ地方に伝わる昔話の中に、月の化身でルウナという名前の女使徒が出てくる。ルミナの名前は、そのルウナからとったものだ。アテロンの名前も、彼の出身地であるクレの言い伝えに出てくる、太陽の化身である、使徒アプロンからとったものだ。
ルミナはアテロンとの会話を思い出していた。
「私が月で貴方が太陽。私はアテロンがいないと、新月になっちゃう。ちゃんと私の側で私のことを輝かしてね、アテロン」
「勿論さ。でも君は僕なんかいなくても、光輝いてるよ。あ、でもそれって僕以外に誰かいるって事かい?え?どうなのさルミナ。何でそんなに輝いてんだよ?え?」
「バカな事言わないの」
「バカって、あのねぇ…」
そう、この謎めいた文章は、紛れもなくアテロンからの手紙だ!
とうとう待ちに待った日がやって来たのだ!
踊り出したい衝動を抑えながら、ルミナはこの短い手紙をもう一度読み直してみた。
しかし2行目の文章が何を意味しているのか、ルミナには皆目見当も付かなかった。
ガルゴンという名前は、聞いたことすらない。何かどこかの古い言い伝えに出てくる名前だろうということは察しがついたが、図書館の機械を使って調べるのは、中央教会に足取りを残す危険があったので断念せざるを得なかった。自宅から図書館にアクセスするのも同様に危険だ。しかたなくテロンキア中の古本屋を回り、古い言い伝えについて調べたが、比較的若い都市であるこの街では限界があった。
ところがある日、1冊の古本の中に、ガルゴンとはゼブの古い言い伝えの中に出てくる、巨大な機械でできた虫であることが記されていた。しかしながら、その本の中ですらそれ以上のことには触れていなかった。ゼブの古い言い伝えであるということがわかった以上、あの「出会いと別れ」の老婆に直接会って聞いてみる以外、今のルミナに手はなかった。
「そろそろ来る頃じゃろうと思っとった。わしもまだまだ捨てたもんではないわい」
「どういうことですか?」ルミナは少し不信に思い、そう尋ねた。
「お前さんは気にせんでもええ」
その口調は、以前ルミナが老婆の名前を聞こうとした時のそれに似ていた。どうやらこれ以上深く追求しない方がいいらしい。
老婆はもとの優しい口調に戻って言った。
「それより、わしに何か聞きたい事があったんじゃないかのぅ?」
「はい。お婆さんはガルゴンについて何か知ってますか?」
老婆の目が光った。
「ガルゴンとな。久しぶりに聞く名前じゃのぅ」
「何か知ってるんだったら、何でもいいんです、教えてください!」
老婆は咳払いをすると、落ち着けと言わんばかりに上の両手をルミナの肩に乗せ、彼女を近くの椅子に座らせた。そして自分も腰掛けると、忘れ去られた記憶を呼び戻そうとするかのように、目を閉じ、ゆっくりと顔を持ち上げながら話し出した。
「大昔の話じゃて、ゼブ族の中でも知っているものは少なくなってしまったがのぅ。その昔、わしらゼブの民があの谷に住みつくずっと以前に、サピウスという虫たちが住んでおったそうじゃ。彼らは非常に進化した賢い虫達じゃったが、次第に自然との調和を忘れ、おごり高ぶった存在になっていったそうじゃ。まるで今のわしらみたいじゃと思わんかい、ルミナ?」
急に目を見開いた老婆の視線に、ルミナの背筋が寒くなった。
老婆は少しの間黙っていたが、やがて目を細め、ルミナの方に乗り出しながら話を続けた。
「彼等は自分達の力と技術を誇示するために、巨大な機械の虫を作ったんじゃ。それがガルゴンじゃよ。しかし、ガルゴンは精巧に出来過ぎておった。戦争や破壊にばかり使われる自分を、いやになってしまう何か、『良心』とも呼べる何かが、ガルゴンに生まれてしまったのじゃ。そしてある日、耐えきれなくなったガルゴンの目から放った赤い光によって、ほとんど一瞬のうちにサピウス虫達は絶滅してしまったそうじゃ。ガルゴンも自らの光で破壊されてしまったが、哀れに思ったゲミ様が、ガルゴンを星になさったという話じゃよ」
「何て悲しい話。そのサピウスも私たちと同じゴキブリだったのですか?」
「そうじゃなければいいがのぅ」老婆はため息まじりにそうつぶやいた。
「今となってはゲミ様と星になったガルゴン以外知るものはおらんて」
ルミナはガルゴン星座というのを聞いたことがなかったので、老婆に尋ねた。
「ガルゴン星座ってどのあたりにあるんですか?」
「今いうサキール星座の一部がそう呼ばれていたよ。一番明るい赤く光っていた星がガルゴンの目と言われていた」
「言われていたって…」ルミナには意味がよく分からなかった。
「4、50年前に忽然と光が消えてしまったんじゃよ。それとともにガルゴン伝説も消えて行ったと言う訳じゃ。哀れよのぅ。」
ルミナは読み慣れない天文学の本を読みあさった。「ガルゴンの目」は学者の間では、「サキルタ1等星」と呼ばれていたらしい。43年前に突然その赤い光が消えた後、そのすぐそばにベトルというブラックホールが発見されたが、それが、サキルタ1等星のなれの果てなのか、あるいはベトルがサキルタ1等星を吸い込んだのか、それとももっと別の何かが起こったのか、学者の間では今なお議論がなされているらしい。どちらにしてもこのブラックホールであるベトルは、サキルタ1等星が消滅した時、つまり「ガルゴンの目が閉じた時」に現れたものだ。このベトルを調べていけば、もっと何かが解るに違いなかった。ルミナはさらに色々な本を読みあさった。そして答えは以外にもゲミの聖書の中にあった。このベトルは聖書の中ではビアトルとう悪魔の化身で、「凍てつく氷の息であらゆる生物を殺してしまう死に神として恐れられた」ことを発見した。「動きの早いゲミの使徒、チューリとの戦いの最中、謝って自分を凍らせてしまい、そのまま巨大な氷の山になってしまった」と聖書には書いてある。ビアトルと言えば、「氷の海」の北西部にも同じような名前の死火山がある。ビルトレ火山だ。「ア」と「ル」は方言によって入れ替わる事がよくある。「レ」は「ル」の所有格だから間違いない。これだ!
ヴェルガに関しては、偶然も手伝って、比較的簡単に解った。
古い天文学の雑誌の中に、太古の星々の話のコラムがあり、たまたま現在の北極星がその昔はヴェガ、あるいはヴェルガと呼ばれる星で、当時は違う星が北極星だったという話が載っていたのだ。しかし「氷の海」に「ヴェルガの谷」と呼ばれる場所はない。アテロンが何か象徴的にそう呼んでいるに違いない。ルミナは自分の機械に「氷の海」の詳細な地図を写して、他のデータを元に「氷の海」の立体図を作った。すると面白い事に「氷の海」の至る所に、陸と氷で出来た谷があることがわかった。「ヴェルガの谷」と呼ぶからには、きっとその谷からヴェルガが見えるに違いない。北極星を擬似的に写し出した後に、機械の中に映し出された、立体の「氷の海」を探し回った。すると南西部に突き出たカルププ半島とその東の部分に、みごとヴェルガが見える氷の谷があることを発見した。「氷の海」に着いたら、ここから出発すればいいのだ!
問題はメターローだった。「出会いと別れ」の老婆もこの名前は聞いたことがないと言っていた。ありとあらゆる書物を調べたが、どこにもメターローという言葉は出てこなかった。あともう一歩で解読出来るというところで、全くお手上げ状態になってしまった。
(このままでは一生アテロンには再会出来ない)
そう思うと、焦りと怒りで、もうどうなってもいいから図書館の機械で調べようという気になってくる。しかし、それでは本当にアテロンに会えなくなるのではないのか?でも、ここまで来て何も解らず一生会えないよりも、多少の危険を承知で、この暗号を解読してアテロンの元に行きたい。もし二虫とも殺される運命にあるのなら、アテロンの側で死にたい。そう決心したルミナは、コートを着ると、聖カムロア短大の図書館に向かって家を出た。11月の曇った空と妙に生暖かい風が、季節はずれの台風の接近を知らせていた。
(ひと荒れ来そうね)
コートの襟を立てながら、ルミナは聖カムロア短大へと急いだ。アテロンからの暗号を受け取ってから既に3ヶ月が過ぎていた。
途中、殆どの葉を風にもぎ取られた街路樹にもたれて、吟遊詩虫がいるのを見かけた。特に気にしていたわけではなかったが、なにげに歌っている吟遊詩虫の口から「メターローが怒る前に…」という一節が聞こえてきた時、ルミナの足は止まった。
「まさか…」ルミナは自分の耳を疑った。
しかし、もしもと言うことがある。ルミナはその場に立ち止まり、2番のサビが来るまで待つことにした。リュターを手に吟遊詩虫は美しい声で歌い続けた。
今も昔も変わらない
同じ愚行の繰り返し
あちらを殺せば
こちらも殺(や)られ
ゲミ様さえも目を瞑る
早く気付けと目を覆う
メターローが怒る前に
メターローが怒る前に
怒りの礫が降る前に
早く気付けと目を覆う
ルミナは吟遊詩虫が歌い終わると、彼に走り寄り、5ルーキン玉をリュターのケースに入れながら話しかけた。興奮して声が震えているのが自分でもわかった。
「今の歌、何て言う題ですか?メターローがどうしたとかいう内容だったみたいですけど…」
吟遊詩虫は少し驚いたようだったが、すぐ微笑むとこう答えた。
「驚きました。僕の歌を内容まで聞いてくださる虫がまだこの街にいたなんて。あ、それに5ルーキンも、ありがとうございます。いや何ね、あの歌は僕の祖父が歌っていたんで覚えちゃったもんなんですよ。題名もあったんでしょうが、僕は知らないんです。」
ルミナは彼の歌声と喋り声の違いに驚きながらもさらに尋ねた。
「今の歌詞に出てくる…メターローって何ですか?」
「あぁ、メターローですか?あれは僕の部族に古くから伝わるゲミ様の使徒様です。普段はおとなしいんですが、本当に怒ると天から火のついた岩を投げて来るんです。聞いたことないでしょう?僕等の小さな部族の話なんて誰も知らないですよね。でも、本当らしいですよ。ほら、「氷の海」に巨大なクレーターがあるっていうでしょう?あれも…」
ルミナは走り出していた。
(そうか、そうだったんだ。聞いたことがある、「氷の海」の巨大なクレーター。「ガルゴンの目が閉じる時、ヴェルガの谷より、メターローとの間を進むべし」って、「ヴェルガの谷からビルトレ火山とクレーターの間に向かって進め」っていうことだったんだ!)
ルミナの足取りは軽くなっていた。そしてその方向は聖カムロア短大とは反対の自宅の方へ向いていた。
* * *
次の日、ルミナは何事もなかったかのように、聖カムロア短大へ向かった。いつものように「ゲミ教概論」の授業には、ユイダーゴの姿があったが、もう彼の存在を気にする事もなかった。
アテロンは生きている。そしてルミナを待っている。
そのことが確証された今、ルミナの気持ちを揺るがすものは何もないように思えた。
その日の午後、学食で友達と話をしている時も、いつものようにユイダーゴが2、3席離れて座っていた。以前はそれが、まるでルミナとその友達たちとの会話の中から何かを聞き出そうとしているように思えてならなかったが、今日はそれすらも感じられない程、ルミナの心は弾んでいた。自分とルミナの目が合う度に、優しい微笑みを浮かべ、自分の存在に気付いてくれた事を素直に喜んでいるように見えるユイダーゴが、愛おしいとまで思えるのだった。この数ヶ月で、次第に友達も彼の存在に気付き始め、ユイダーゴの容姿の良さや、優しい仕草を誉めるようになっていた。
「目の前にあんなにハンサムで優しい男がいるのにさ、ルミナったら。いつまでも貴方をふってどこかへいなくなったアテロンなんて忘れちゃって、ユイダーゴと付き合えばいいのにねぇ、ライラ」
「そうよ。私だったら絶対そうするわ。」
「ほんと。ルミナがいつまでも煮え切らない態度とってるんなら、私が取っちゃうよ!」
「だめよ、ラモーゼ。彼ったら一度だって私達に興味があるような素振りを見せた事ないじゃない。あぁ、ルミナが羨ましい」
「でも…」
ルミナはうつむいていた。ユイダーゴの優しい視線から逃げるように、食器の中のチャクルを見つめていた。口の中のチャクルが急にいつもより苦く感じた。
「でもじゃないわよ、ルミナ。もう何ヶ月も彼はああして待ってるのよ!」
「この間のキャンプの時だって、他の男ばっかのグループと、わざわざ私達と同じキャンプ場に来てたんだって」
「うっそー!なんて健気なの!私なんてさぁ…」
ルミナの旅立ちの準備は最終段階に入っていた。日々の訓練で、彼女の体力もかなりのものになってはいたものの、アテロンがいる「禁断の地」への道のりは長く険しい事もルミナはよく知っていた。タゴードゥの中流階級に育ったルミナには、その冒険は無謀とも思えるものだった。体力に自信がある男のゴキブリでさえ、あの「月夜の森」を飛び越えるのは、至難の業だというのに、羽が弱い女のルミナにとってそれは自殺行為に等しかった。しかも、さらに「氷の海」奥深くまで旅する道具を持って飛ぶ事などは論外であった。しかし、いつまでもここでじっとしているわけにはいかない。もう少し、あともう少ししたら…
「ルミナってば!」
ライラの声に我に返ったルミナは、皆の視線が一斉にユイダーゴにそそられている事に気付いた。何とユイダーゴは、「出会いと別れ」で買った、ゼブの老婆のキュロの油壺をテーブルの上に出していた。
「あれって、プロポーズってこと?」
「そうとしか考えられないじゃない!」
「キャァー!何て大胆な事するのかしら。素敵!」
ルミナは少し腹が立って、黙って席を立つと、ユイダーゴの方へ歩いて行った。
「困ります、ユイダーゴさん。みんなに誤解されます」
ユイダーゴは急に真面目な顔になり、立ち上がると大きな声で言った。
「いいえ、みんなは誤解してません。誤解してるのは貴方だ。僕はこの壺の中に新しいキュロの油を入れて来ました。僕は本気なんです。ルミナさん、僕と結婚してください」
ルミナはあまりに急なユイダーゴの求婚に、気が遠くなった。毎日の飛行訓練の疲れもあったせいか、自分の意識が朦朧としていくのを感じた。遠くでラモーゼやライラの悲鳴が聞こえた気がした。目の前が暗くなり…
* * *
気が付くとルミナは、見覚えのない寝室に横になっていた。額には濡れたタオルが置かれてあった。次第に意識が戻って来たルミナの耳に、隣の部屋から、ラモーゼやライラの声に混ざって、ユイダーゴの声も聞こえて来た。
「じゃ、お願いしますね、ユイダーゴさん」
「もう少し寝ていれば元気になるでしょう。とにかくひどく疲労しているから、今はこのまま寝させておくのが一番良いと思います。今日は僕はメモでも残して、友達のアパートにでも泊まる事にしますよ」
「いてあげれば?貴方もそうしたいんでしょう?」
「それは、まぁ、そうですが。そういうわけにもいかないでしょう」
「真面目ね。そんな事じゃ今時の女性はものに出来ないわよ。さぁ、私達は御邪魔だからもう帰るわね」
「しっかりね、ユイダーゴさん。バイバイ」
「え?は、はい」
(行かないで、ラモーゼ!ライラ!)
ルミナは声にならない声で叫んでいたが、彼女たちに聞こえるはずもなかった。
「気が付きましたか?」
ユイダーゴの低く優しい声に、ルミナは目を開けていたことも忘れていた自分に気が付いた。
「わたし…」
「びっくりしましたよ。急に気を失ってしまうから…。そんなに驚かせてしまったのは謝ります。でも、貴方も無理し過ぎですよ。いくら試験前だからって、それじゃ試験中に倒れてしまいますよ」
「はい、すいません」ルミナは妙に素直になっている自分に驚きながらそう答えた。
「さぁ、これを飲んで。もう少し眠った方がいい」
「ありがとう」
「気にしない、気にしない。僕は身支度をして、友達のアパートに行きますから、遠慮なくぐっすり寝ていってください。鍵は隣の部屋のテーブルに置いておきますから、明日食堂で返してもらえれば結構ですから…」
「本当に、すいません」
「さぁ、もういいですから。それを飲んで」
ユイダーゴは優しく微笑んでそう言うと、隣の部屋に消えて行った。あまりにも優しいユイダーゴの態度に、ルミナの心が大きく揺れていた。さっきまであんなにアテロンへの気持ちで一杯だったはずなのに。このまま眠ってしまえば、あらゆる苦悩や苦痛が消えて行くようにも思えた。しかし何かが変だ。完璧過ぎるこの状態に、ルミナは何とも言えない危機感を覚えた。ユイダーゴが去ったらすぐに自分もここを出なければ、二度とアテロンには逢えなくなると、心の中のもう一虫のルミナが叫んでいた。
ふと、隣の部屋で電話が鳴った。ルミナはコップの中の薬を、近くにあった観葉植物の鉢にあけると、寝た振りをした。かすかにユイダーゴの声がする。ルミナは全神経を集中してその会話の内容を聞き取ろうとした。
「あ、どうも…。はい、いますが…今は…ちょっと…。すいま…ちょっと待ってく…」
ユイダーゴの足音が寝室に近づいて来た。ルミナは息を潜め熟睡を装った。暫くして足音は隣の部屋へ戻って行った。
「大丈夫です。かなり…い睡眠……飲ませた……死んだよ……寝てま…」
「…はい…今のとこ……言えません。…はい、…しかしごく親しい友達…会話…どうやらかん…切れている……」
「…はい。でも、もし本…切れて……彼女は僕が……。…はい。それと約束……単位…はい、分かりました。お願い……。…ゲミの…」
受話器を置く音がした。ルミナは体の震えを押さえる事が出来なかった。なんと巧妙な中央教会の手口なんだろう!そして愚かにも自分はその手口にまんまと騙されるところだったのだ!アテロンの言っていた中央教会の恐ろしさを改めて感じ、ルミナは吐き気さえ憶えた。
ユイダーゴの足音が近づいて来る。ルミナは必死に体の震えを押さえ、深い眠りについている振りをした。
「悪く思わないでくれ、ルミナ。これも君の為なんだ。君は僕が幸せにする。もうすぐそうなる…」そう呟くと、ユイダーゴは着替えを鞄に詰めて、アパートから出て行った。
ルミナは10分間そのままでいた。というより、動くことが出来なかった。だが、思い立ったようにベッドから出ると、すぐに自分の荷物を持って外に出た。こうなっては体力があるないにかかわらず、この地を去らねばならない。今すぐに…
* * *
アテロンとゼブ族の民がどんな関係にあるのかは分からないが、「出会いと別れ」の老婆を通じ、ルミナは大きな支障もなくゼブ地方までたどり着くことが出来た。途中、ゼブの最大の村、ゼバールに立ち寄った時、テロンキアで医科大の学生がキャンプ中に、鉄砲水に流されて死亡した事故があった事を知らされた。
(かわいそうなユイダーゴ)
ルミナは罪の意識に襲われた。ユイダーゴにしても、彼なりに自分に正直に生きようとしていただけなのに。中央教会からの誘惑に負け、欲しい物を得るために手段を選ばなくなってしまったが為に、結局は何も得ることもなく、ルミナを逃がしてしまった罰として、まるでそこらの哺乳類のように、こともなげに殺されてしまった。ルミナが逃げなければ、彼は殺されなかったかもしれない。彼女自身がユイダーゴを死に追いやったも同然なのだ。でも、もしあの時ルミナがあのまま部屋に残っていたとしても、彼は殺されていたに違いない。ユイダーゴは中央教会が何千年にわたってしている、ゲームの一駒に過ぎなかったのだ。悪いのはルミナではない。ユイダーゴでもない。中央教会なのだ。ルミナは心にそう言い聞かせた。
ゼブの地に入れば、「禁断の地」への入り口である、「月夜の森」は目の前である。しかしここにも中央教会の力は及んでいて、幾度となく行方を阻まれそうになった。しかし、そのたびにゼブの虫達に助けられ、難を逃れる事が出来た。ルミナの胸元に光る「ゼブの心」を見ると、ゼブ族の虫は誰もがルミナを歓迎し、匿ってくれた。そしてどういう訳か、ルミナが自己紹介をするまでもなく、誰もがルミナの名前を知っていたのだ。彼らの時として、粗野で乱暴な行動や言動は、決して嫌みや、下品なところがなく、その奥に秘めた深い優しさをルミナは感じていた。彼等は、中央教会の内部事情に詳しく、その巧妙な手口や、冷静沈着で非道な殺戮行為を幾度となく目の当たりにしてきたらしい。ルミナは、アテロンが昔言っていた、抵抗する地下組織の虫達とは、このゼブ族のことではないか、と思うようになっていた。しかし、彼等は、アテロンが言うように暴力的なところが一切ない。一体どのようにして中央教会に反発してしているのだろう。武器も道具もなく、秘密警察の網の目をかい潜って抵抗し続ける為には、大変な犠牲が伴うに違いない。それでも、彼等はユーモアと笑顔を忘れずに、ひたむきに生きている。ルミナは彼等から見習うべき事が沢山あることを知った。
7月のある日、ルミナとゼブ族の一行は、「月夜の森」の入り口に辿り着いた。
ルミナは辺りをを見回した。もしかしたらアテロンが迎えに来ているかもしれないという密かな期待があったからだ。しかし、彼の姿はなかった。
「アテロンさんは、ここにはおらん。どんなに強靱なゴキブリでも、一月の間にこの「森」を往復することはできねぇ。もしアテロンさんが今ここにおったら、来年の今頃まで向こうに渡ることはまかりならん。それまでわしらが貴方方を守りきれるかどうか自信もない。それに「月夜の森」はきまぐれじゃ。来年も同じ場所から飛び立てるとは限らんのじゃ。今年は、ここ20年で最も「森」が小さくなっておる。それに今は上空の毒素も一番弱い時期。今を逃したら、貴方の体ではとても飛び越えられまいて。それに広大な「禁断の地」で2虫の小さなゴキブリがお互い動き回っては、「津波の海」に落ちた2枚の木の葉のごとく、二度と会うこともなく、死ぬまでさまよう事になろう」
「分かってはいたんです。でも私は大丈夫です」
「いいかい?アテロンさんは必ず向こうにいる。それを信じて飛び続けるんじゃ。我々もお供したいが、ここから先は貴方一虫で行かなくちゃならん。わしらゼブ族は体も小さいし、羽も弱い。途中で足手まといになるどころか、若い者でさえみんなすぐに死んでしまうじゃろう。許しておくんなさいね。ルミナさん」
「いいえ、本当に何から何までありがとうございました。ゲミの御加護がゼブのみなさんの油に惜しみなく注がれますように…」
「ルミナさんこそ、ゲミ様が貴方をお守りくださるよう、わしらは祈っていますじゃ。そしてアテロンさんと再会して二虫で幸せに暮らすんじゃよ。くれぐれもアテロンさんに宜しくお伝えくだされ。わしゃ2回しかお逢いしとらんが、2回目にお逢いしたときは、それはもう逞しくなられて、このタロンは我が目を疑った位ですじゃ。貴方も惚れ直しますぞ。それから長老からこれらの品を預かっておりますじゃ」
ゼブの老虫は、腰に下げた袋から、涙の形をしたペレス産の金属でできたネックレスと、小さなキュロの油壺を出して、それをルミナに渡した。
「これは、わたしの…長老って、じゃ、あのお婆さんが…」
老虫はうなずくと言った。
「長老をはじめ、わしらゼブの民が3日3晩祈りを込めましたんじゃ。わしらには貴方達二虫にわしらゴキブリ種の未来が見える。頑張るんじゃよ」
「本当に色々ありがとうございました。それじゃ…」
そういうとルミナは力強く羽ばたいて永遠に続くとも見える「月夜の森」へ向かって飛び立って行った。
「ゲミ様、あの勇敢なるルミナとアテロンにお力を…」
ゼブの老虫はそう呟くと村へ向かって去って行った。
* * *
ルミナの意識は朦朧としていた。「針の木」と呼ばれる突然変異体の針葉樹は、地平線の彼方まで大地を覆っている。一体、あと何時間くらい飛べば良いのか見当もつかなかった。ここには、降りて羽を休める場所はない。猛毒の巨大な刺に覆われた「針の木」の森は、そこへ何虫も降り立つことを許さないからだ。無数の刺に付いた夜露に、東の空から現れたばかりの月の光が反射して、死の森はまるで、銀色に輝く「氷の海」の様に見えた。
(アテロン…)
ルミナの頭の中には、今や愛するアテロンに逢いたいということしかなかった。
(ゲミ様、私に力を下さい。ここを飛び越える力を…)
その時、ルミナは何かを悟ったような気がした。ゲミのあらゆる教えがかすかな意識の中で渦巻いているのを感じていた。
ゲミは復活すると聖書は言っている。紀元元年に起こった、最初の「サヴァヴの怒り」で我々ゴキブリ全ての罪を償う為に死んで行ったゲミが、いつか復活すると聖書は言っているのだ。しかしその本質は、新たなゲミというリーダー的、救世主的な虫が出現する事を意味するのではなく、総てのゴキブリ個虫個虫の心の中での悟りを意味するものではないのだろうか?ゲミ教は、ゴキブリがゴキブリとしてより良い存在、それは単にゴキブリの為に良い存在という事ではなく、全地球上、ひいては全宇宙にとって意味のある存在になる為のガイドラインであり、最終的に自分の中で悟り、努力しない限り、我々が生きている事の意味や意義は決して見いだせるものではないのだ!ルミナが今まで生きて来られたのも、ルミナの血となり、肉となる為に死んでいった無数の生物達の犠牲があったからこそであり、アテロン・ゼブの民・友達・ひいては死んでいったユイダーゴに至るまで、ありとあらゆる虫達の存在があったからなのだ。その事を素直に感謝し、その為だけにでも誠実に生きようとする事が、何より本当の意味でのゲミ教的生き方なのではないだろうか。ゲミは、「我を信じ、我とともに生きよ」と言った。その本質的な意味は、奢(おご)ることなく、謙虚な気持ちで自分の存在を見つめ、短い生涯を少しでも有意義なものとする為に、己の心の中にある「良心」を信じ、その、時として天虫の声とも思える、自分の生物としての「良心」の声に耳を傾けつつ生きていく事に他ならないのだ。その時こそが、個虫の中でゲミが復活した瞬間なのだ!そしてその誠実な生き方の連続こそが、我々ゴキブリ種、ひいては、あらゆる知的生物の存在意義であり、存在理由なのだ!サヴァヴは、過去にも幾度となく色々な生物に英知を与え、その本質を見出す時をじっと待っていたのだろう。サヴァヴは、ありとあらゆるもの、生物も無生物も、悪も善も総てを創り出し、その行方を見つめている偉大な存在ではあるが、直接的に我々に何かを働きかけるのではなく、問題に直面した個々のゴキブリが、どう対処するのかを黙って見続ける事しかしない。何時間祈っても天からその手を差し延べてくださるわけではないのだ。その問題がたとえ我々のように小さな存在にとって危機的状況であろうとも、サヴァヴが見渡している宇宙全体から見れば、実に些細で、大いなる存在には何ら影響のない事だったとしても、それはサヴァヴが我々を見放しているという事ではなく、自分達で解決する場を与えてくれている、サヴァヴの大いなる「愛」なのだ。それだけの力が、我々のように小さな存在にもあると信じているサヴァヴの慈悲と期待の現れなのだ!祈りも大切だろう。しかしそれは救いを求める為ではなく、己の持てる可能性を最大限に発揮する為のよりどころとするべきなのだ。
そこまで考えて、ルミナはあえて再び祈った。
(あぁ、ゲミ様、私に力を…)
薄れて行く意識の中で、ルミナは、美しくも冷たさに満ちた「月夜の森」の輝きに包まれながら、ひたすら飛び続けた。不思議なことに、さっきまでの苦痛はなく、何か心地よさにも似た感覚が、ルミナの体を通り過ぎるのを感じた。そして、まるで子守唄のように、グロッスムの「月夜の森の奇跡」の一節が、遠くルミナの耳に聞こえてくるのだった。
あぁ、サンネ!貴方の光で私を照らしてください!
このモーナは、貴方の光があってこそ輝けるのです
あぁ、サンネ!貴方の光で道を照らしてください!
このモーナを、貴方の光へと導いてください
たとえその道が「針の木」でできていようとも
たとえその光が「氷の海」のむこうであろうとも
あぁ、ゲミよ、我に力を…

2000年8月21日